≪挨拶と返事≫

世間を騒がせている日大アメリカンフットボール部の報道を見ていてふと思い浮かんだことがある。

 

長年プロ野球のコーチを務めている私の古くからの友人は、「プロ野球選手になるためにはどうすればいいですか?」と聞かれるといつも「挨拶がきちんとできること」と答えている。また以前見たテレビ番組の中で、現在は引退している当時パリーグを代表していた打者も、少年野球教室での子供からの同じような質問に「まず挨拶をきちんすること」と答えていた。

 

野球は武道にくらべると、どちらかと言えば精神性よりも勝敗に重きを置いていると思える西洋のスポーツだが、両者のこの言葉はとても興味深い

 

個人競技、団体競技を問わずすべての競技に必要な技能は、個人の努力のみで身につくものではない。もちろんこれはスポーツに限ったことではないが、指導者やチームメイト、ライバルなど他の人間との関係性があってはじめて自分の成長がある。

 

武道ももちろん同じである。単に相手を倒すだけのための技術であったはずの武術は、その歴史の中で、剣術が剣道へ、柔術が柔道へというように「術」が「道」に昇華してきた。これは西洋の騎士道も同じである。

 

武道家として修得しなければならない大切なものは多々あるが、その基本であり第一歩でもある「挨拶」と「返事」ができないものに成長はない。

これは直接相手に対面した場合はもちろん、現代社会での主たるコミュニケーションツールのメールやSNSなど相手と直接対面していない場合も同様である。

 

心からの「挨拶」と「返事」には、他者に対する尊敬の念があり、相手を理解しようとする謙虚さがあり、他者の気持ちを推し量る洞察力があり、人間同士の関係性を円滑に進めていくための包容力がある。

心無い、形だけの「挨拶」や「返事」をおこなうものは、相手のことを考えずにただむやみやたらに自分の考えだけを振り回すこととなる。

戦いという技術の面で具体的に言うなら、相手の心や体の動きを一切考慮せずに自分の攻撃を繰り出し、自分自身に無理、無駄、隙が生じ、結局は相手に打ち負かされてしまうということである。

 

日大アメリカンフットボール部は、自分が成長するために必要な相手のことなど歯牙にもかけず、ただ我のみが勝つことを追求していったのだろう。その結果、あまりにも狭視野となり、本来味方同士であるはずの指導者と選手とのコミュニケーションも失われ、大きな負けを手にすることになった。

日大側の記者会見での司会者も同様である。自分の都合だけを優先し、相手の意図をくみ取る能力と、そのことにより引き起こされる結果を想像する能力が完全に欠如している

上意下達だけが存在する組織には、相互理解というものは存在しえない。

 

誠流武会でひとりよがりの「挨拶」や「返事」をおこなう者が黒帯になることはない。




≪できる理由、できない理由≫

武術の稽古を休むとき、さまざまな理由で、自分の中の甘えを正当化しようとすることがある。

しかしその理由は本当に避けられないものなのだろうか?

 

稽古のある曜日と時間はずっと以前から変わらない。

 

その仕事は本当にその曜日のその時間帯にしかできないものなのだろうか。

その用事は本当にその曜日のその時間帯にしなければいけないものなのだろうか。

その友人とは本当に稽古の時間帯にしか会えないのだろうか?

 

稽古に出られない理由はいくらでも考えつくかもしれないが、そこで一度立ち止まって考えてほしい。

本当は自分自身でも気づいているはずである。自分自身の甘えと心の弱さに。

思い出してほしい。入門を決意したときに自分の思い描いた未来を。

誰しもが、日々精進し自分を鍛えあげ、心身ともに武道家として成長しようと思ったのではないだろうか。

それなのに今の自分はどうだろう。稽古がある時には休む理由を考え、稽古の無い日に自主稽古に励むこともしない。

そんな自分を誰よりも自分自身が知っている。

 

道場というのは所属するだけの場所ではない。稽古を積み重ね自分自身が成長する場所なのだ。

できない理由をとうとうと並べ立てるよりも、できる理由を絞り出そう。

そこには自分自身が誇れる自分が待っている。




≪「心」体育道 「誠」流武会≫

廣原先生が心体育道を創始された際に言われた「心と体を育てる道。いい名前じゃろう。心が伴わん武道はダメなんよ。心体育道は入門希望者もちゃんと面接して、ふさわしい者だけに教えるようにしたいんよね」という言葉が常日頃から私の中にある。

面接とまではいかないが、心体育道には喫煙者は入門できない決まりもある。利益を目的としたスポーツ武道とは違い、師が弟子を選ぶのである。

 

」が無ければ「体育道となる。「心無き者」が学ぶ場である。「」は「」に通ず。「心無き者」は、他者から「」を得ることができない。そこに「」は無く、あるのは「」のみである。

また、「心ある者」は常に他者に「」を配ることができる。「」を配るものは他者の「」にも敏感である。他者の「」を素早く察知し、己の「」を持って対処することは、すなわち武道における反応である。「心無き者」は常に己のことのみを考え、結果的に「」を生ずることになる。他者に「心配り」することなく生きていくことは人間社会では不可能である。そのため我勝手に生きようとするものは「」の世界にはまり込んでしまうのである。そして当然自己の中にあるはずの自分自身の過ちの原因を、自己ではなく他者に求めていく。「」に生きる者は、自分の「」を正当化するために「心無き言葉」で言いつくろい、「」に「」を重ねていく。

 

誠流武会も同様である。「」が無ければ「武会」である。「」を失った者は「不誠実者」となり、他者からの「」を失う。「誠心誠」生きることを忘れ、「」と「」が抜け落ち、自分の「」のままに生きようとし「」を重ねていく。

 

」と「」を失わないよう生きることも「心体育道 誠流武会」での修行である。武道である限り強さを求めることは当然である。しかし独り善がりな強さだけを求めてしまうといつしか友を失い孤立してしまう。自分ひとりしか存在しない世界では勝つことも負けることもできない。一人稽古をする場合も心に思い描いた他者が存在しているからこそ捌きを行える。他者を否定し自分しか存在しない世界で必死に捌きを行う姿は滑稽でもある。

 

武道の修行は一生である。今日の稽古の結果が翌日すぐに出てくるようなことは決して無い。無駄に思えるような日々の稽古の積み重ねのみが結果を生むのである。自分自身に原因を求めず、常に外に責任を転嫁し、まっすぐに道を進むことなく信念無くあちらこちら寄り道ばかりしていると、結果的に目的地にたどり着くことはできない。

目先の結果に囚われ「体育道 武会」の道に迷いこまないように。そこには「」を糧として生きる魍魎が手ぐすねを引いて落ちてくるのを待っている。




≪その他大勢になるな≫

 

自戒の念を込めて記す。

 

人は常に自分の人生の主役を生きている。自分以外の周りの人は自分の人生の舞台にとっての脇役であり、自分の人生が幕を閉じるとき、その存在は少なくとも自分の中からは消えてしまう。

はたから見たらつまらなそうに見えても、すべての人はその人生の中で例外なく主役なのだ。だから、最近のテレビドラマや映画のように、主役以外のキャストにスポットを当て、スピンアウトの特別編が作られ、そこにある違う視点からの人生に感銘を受けたりもする。

 

ところで最近、特に稽古の指導中に、ふと感じることがある。

大勢の気合の中で稽古をするのは、少数での稽古とまた違い別の気持ちよさがある。稽古をやっているんだなあという充実感がそこにはあふれている。しかし大きな気合の響くその空間の下で、「主役を演じているもの」、「脇役を演じているが機会が来れば主役に転ずるもの」、「今は脇役だがいつかスピンアウトの特別篇で脚光を浴びるもの」のほかに、「その他大勢」というものがこの世にはいるのではないかと思うことがたびたびあるのだ。自分以外の他人を際立たせるためだけにいるかのような「その他大勢」である。

 

「その他大勢」がいることによりもちろん道場は活気づいているのだが、そこに「存在」しているのは「その他大勢」以外の道場生で、「その他大勢」はただそこに「ある」だけのように感じてしまう。

簡単に言ってしまえば、その違いは真剣に立ち向かっているかどうかだけである。真剣に立ち向かうためには、その場所に来る以前の普段からの準備と、常日頃から持ち続ける稽古に対する心がけが必要である。それなくして皆と同じ舞台に立っても、それはやはりただそこに「ある」だけで、それ以上でもそれ以下でもない。それが「その他大勢」なのである。

それは武道だけではない。人生の様々な局面で自分を偽らずに真剣に立ち向かっているかどうかである。もちろん常に真剣である必要はない。時と場合によっては人は力を抜くことも必要である。要は自分を偽らないということが大切なのである。武術の稽古が自分の人生の息抜きの場であっても構わないと私個人は思っている。息抜きと手抜きでは全く違うのである。

 

現代において武道を学ぶ意味は、それぞれ違っていて当然である。それよりも武道を学ぶことによって自分の人生に何をフィードバックできるかが大切だとも思う。ただしこれだけは言えるのだが、武道を始めようとした頃の自分にとって、間違いなく武道とは自分の人生のなかの「光」のひとつだったはずである。その光が日々の生活に追われ、ごまかしを憶え、徐々に輝きを失っていくのである。

 

 

ただ漠然と生き、漠然と年を取り、漠然と死んでいくのも人生かもしれない。その選択権は自分にある。しかし、実際はそれを選択したというより、他の大切なもろもろを選択しなかった結果そうなってしまっただけなのではないだろうか。

テレビや映画のスピンアウトで主役を与えられるものも、その役の中でしっかりと自分の人生を生きているものたちばかりである。

 

なまけてばかりや、言い訳してばかりの人生は、もうすっかり鈍感になってしまった自分自身には見えなくなっているのかもしれないが、実は舞台を見ている客(自分の周りの他の人々)からははっきりと見透かされている。そしてそれを気づいていないのは自分だけなのである。

 

その他大勢になってしまってはつまらない。今からでも遅くはない。自分自身の人生をしっかり生きようではないか。




≪武術家としての減量≫

ここ2〜3年、ローカーボンダイエットをあまりストイックにならずに続けている。

 

たまに厳しめに行うこともあるが、普段はまあ概ねゆるい感じである。
それでも結果は大したもので、92kgあった体重が現在78〜79kgで落ち着いているし、体脂肪率も12〜16%の間を行ったり来たりしている。もともとロサンゼルスで廣原先生の家に居候させていただいていた時は100kgを越えていたのでずいぶんの変わりようだ。

 

ところで私の減量について、よく「空手では体重があった方が有利なのではないか?」といった質問をしてくる方がいる。
答えは〇でもあるが✕でもある。

 

ルールの下で戦うフルコンタクト空手のようなスポーツ空手において体重が重いのは断然有利である。それゆえ私は意識して100kgの体重を維持していた。当時ロサンゼルスの道場には身長190cm前後、体重100kg超の道場生が多数在籍していた。その道場生たちの攻撃に対処するためでもあった。体で相手の攻撃を受けとめ、体全体の圧力で攻撃をはね返す。スポーツ空手ならではの戦い方である。

 

しかし、命のやり取りまで含めた武術の世界ではその考え方は全く通用しない。
廣原先生の名言にあるように「撃たれ強い者はいても、刺され強い者はいない」のである。
体で相手の攻撃を受け止めるということは、ナイフを持った相手から何度でも刺されてしまうということと同じ意味を持つ。一度でも刺されてしまえばもう終わりである。こちらの動きは止まってしまう。

 

相手の動きに的確に反応し、目や金的、首など相手の弱い部分に的確に反撃を加える。そのためには身軽な体が必要になる。100kg時代の私と、現在の私が戦ったら、100kgの私は簡単に倒されてしまうだろう。

 

誤解のないように言っておくが、ここでいう減量とは痩せるということではない。必要な筋力や力を保持したままで、無駄な脂肪をそぎ落とし、健康な体を作るということである。私自身、もう少し体重を落とした方がいいのではと今も感じている。

 

武道家として向上していくために必要なことは、道場での稽古だけではない。

強さを追い求めた上での減量というものある。




≪武曲≫

何人かの道場生にはもう話したが、藤沢周の「武曲」が面白い。
高校剣道を軸に武道の本質を描いているのだが、これがなかなかのものである。
スポーツ格闘技と心体育道の違いが、現代剣道と主人公の目指す剣の道との違いのようで、読んでいて納得することが多い。
心体育道を修業するものにはぜひ読んで欲しい一冊である。
武曲




≪昇級・昇段審査≫

誠流武会の昇級・昇段審査は年に一回である。

以前から私は「黒帯になるのが目的なら他の道場に行った方がいい」と言い続けている。

すべての道場生はもともと強くなりたいとういう目的で入門するのだが、途中から単に黒帯を習得することが目的となる場合がある。

ここで問題となるのが、現実問題として空手の世界はその流派や道場によって帯の実力がまちまちであるとういうことだ。

ただ単純に年数を重ねれば黒帯となることが可能な流派が実に多い。この場合の年数とは修行の年数ではなく、所属しているというだけの年数である。そして黒帯を取ったらその武道そのものをやめていく場合も多い。

私自身は、誠流武会における色帯とは強さを表すものではなく、心体育道の技術を習得した度合いを表すものだと思っている。もちろんそこに強さが徐々に備わってくるのではあるが、黒帯になってからが本当の修行なのである。

他流派で段位を取って誠流武会に入門してきた道場生が、最初の審査で水色帯や黄帯となるのはごく当たり前のことである。ルールのもとでの強さをいくら誇ってみたところで、それは全く方法論が違う。そのため武道経験者のほうがかえって、入門してしばらくの間、心体育道の動きに体がついて行かず苦しむ場合が多い。

しかしそこは黒帯である。稽古を続けているうちに突然意識が変わり、こちらが驚くほど動きが良くなってくる場合がほとんである。もちろん中には何を思ったか、最初の審査でまったく動けなかった自分のことは棚に上げて、本来黒帯を他流派で持っている自分が低い位置の色帯になったことに嫌気をさしてやめていく者がいるが、それは少数である。

誠流武会の稽古はどの道場も稽古は週一回、もしくは週二回である。道場の稽古の数としてはさほど多くない。むしろ少ないと言っていい。ただ心体育道とは暴力や病気から身を守るための術、いわば生きるための技術である。道場稽古だけで身につくはずもない。

道場とは稽古の方法、強くなるための方法を教える場所であって、それを実践するのは日々の鍛練でしかない。

とはいえ道場の稽古に出て来ずに自主稽古だけに励んでいては本末転倒である。正しい指導を受けずに収得できるような技術は心体育道には無い。きちんと稽古に出てきている弟子たちの動きを見ていても、間違った方向に進んでいるのを見ることが多々ある。

そのため今回の昇級審査より、出席日数が五割を越えている者のみ受けることができるとした。週一回、年にすると約52回。とすると年に26回の稽古への参加が必要であるが、月にすると約2.2回となる。

たったそれだけの道場稽古で強くなれると思っている者がいたら大いなる勘違いである。