2016.10.06

≪「心」体育道 「誠」流武会≫

廣原先生が心体育道を創始された際に言われた「心と体を育てる道。いい名前じゃろう。心が伴わん武道はダメなんよ。心体育道は入門希望者もちゃんと面接して、ふさわしい者だけに教えるようにしたいんよね」という言葉が常日頃から私の中にある。

面接とまではいかないが、心体育道には喫煙者は入門できない決まりもある。利益を目的としたスポーツ武道とは違い、師が弟子を選ぶのである。

 

」が無ければ「体育道となる。「心無き者」が学ぶ場である。「」は「」に通ず。「心無き者」は、他者から「」を得ることができない。そこに「」は無く、あるのは「」のみである。

また、「心ある者」は常に他者に「」を配ることができる。「」を配るものは他者の「」にも敏感である。他者の「」を素早く察知し、己の「」を持って対処することは、すなわち武道における反応である。「心無き者」は常に己のことのみを考え、結果的に「」を生ずることになる。他者に「心配り」することなく生きていくことは人間社会では不可能である。そのため我勝手に生きようとするものは「」の世界にはまり込んでしまうのである。そして当然自己の中にあるはずの自分自身の過ちの原因を、自己ではなく他者に求めていく。「」に生きる者は、自分の「」を正当化するために「心無き言葉」で言いつくろい、「」に「」を重ねていく。

 

誠流武会も同様である。「」が無ければ「武会」である。「」を失った者は「不誠実者」となり、他者からの「」を失う。「誠心誠」生きることを忘れ、「」と「」が抜け落ち、自分の「」のままに生きようとし「」を重ねていく。

 

」と「」を失わないよう生きることも「心体育道 誠流武会」での修行である。武道である限り強さを求めることは当然である。しかし独り善がりな強さだけを求めてしまうといつしか友を失い孤立してしまう。自分ひとりしか存在しない世界では勝つことも負けることもできない。一人稽古をする場合も心に思い描いた他者が存在しているからこそ捌きを行える。他者を否定し自分しか存在しない世界で必死に捌きを行う姿は滑稽でもある。

 

武道の修行は一生である。今日の稽古の結果が翌日すぐに出てくるようなことは決して無い。無駄に思えるような日々の稽古の積み重ねのみが結果を生むのである。自分自身に原因を求めず、常に外に責任を転嫁し、まっすぐに道を進むことなく信念無くあちらこちら寄り道ばかりしていると、結果的に目的地にたどり着くことはできない。

目先の結果に囚われ「体育道 武会」の道に迷いこまないように。そこには「」を糧として生きる魍魎が手ぐすねを引いて落ちてくるのを待っている。