2018.05.25
世間を騒がせている日大アメリカンフットボール部の報道を見ていてふと思い浮かんだことがある。
長年プロ野球のコーチを務めている私の古くからの友人は、「プロ野球選手になるためにはどうすればいいですか?」と聞かれるといつも「挨拶がきちんとできること」と答えている。また以前見たテレビ番組の中で、現在は引退している当時パリーグを代表していた打者も、少年野球教室での子供からの同じような質問に「まず挨拶をきちんすること」と答えていた。
野球は武道にくらべると、どちらかと言えば精神性よりも勝敗に重きを置いていると思える西洋のスポーツだが、両者のこの言葉はとても興味深い
個人競技、団体競技を問わずすべての競技に必要な技能は、個人の努力のみで身につくものではない。もちろんこれはスポーツに限ったことではないが、指導者やチームメイト、ライバルなど他の人間との関係性があってはじめて自分の成長がある。
武道ももちろん同じである。単に相手を倒すだけのための技術であったはずの武術は、その歴史の中で、剣術が剣道へ、柔術が柔道へというように「術」が「道」に昇華してきた。これは西洋の騎士道も同じである。
武道家として修得しなければならない大切なものは多々あるが、その基本であり第一歩でもある「挨拶」と「返事」ができないものに成長はない。
これは直接相手に対面した場合はもちろん、現代社会での主たるコミュニケーションツールのメールやSNSなど相手と直接対面していない場合も同様である。
心からの「挨拶」と「返事」には、他者に対する尊敬の念があり、相手を理解しようとする謙虚さがあり、他者の気持ちを推し量る洞察力があり、人間同士の関係性を円滑に進めていくための包容力がある。
心無い、形だけの「挨拶」や「返事」をおこなうものは、相手のことを考えずにただむやみやたらに自分の考えだけを振り回すこととなる。
戦いという技術の面で具体的に言うなら、相手の心や体の動きを一切考慮せずに自分の攻撃を繰り出し、自分自身に無理、無駄、隙が生じ、結局は相手に打ち負かされてしまうということである。
日大アメリカンフットボール部は、自分が成長するために必要な相手のことなど歯牙にもかけず、ただ我のみが勝つことを追求していったのだろう。その結果、あまりにも狭視野となり、本来味方同士であるはずの指導者と選手とのコミュニケーションも失われ、大きな負けを手にすることになった。
日大側の記者会見での司会者も同様である。自分の都合だけを優先し、相手の意図をくみ取る能力と、そのことにより引き起こされる結果を想像する能力が完全に欠如している
上意下達だけが存在する組織には、相互理解というものは存在しえない。
誠流武会でひとりよがりの「挨拶」や「返事」をおこなう者が黒帯になることはない。
2017.07.05
武術の稽古を休むとき、さまざまな理由で、自分の中の甘えを正当化しようとすることがある。
しかしその理由は本当に避けられないものなのだろうか?
稽古のある曜日と時間はずっと以前から変わらない。
その仕事は本当にその曜日のその時間帯にしかできないものなのだろうか。
その用事は本当にその曜日のその時間帯にしなければいけないものなのだろうか。
その友人とは本当に稽古の時間帯にしか会えないのだろうか?
稽古に出られない理由はいくらでも考えつくかもしれないが、そこで一度立ち止まって考えてほしい。
本当は自分自身でも気づいているはずである。自分自身の甘えと心の弱さに。
思い出してほしい。入門を決意したときに自分の思い描いた未来を。
誰しもが、日々精進し自分を鍛えあげ、心身ともに武道家として成長しようと思ったのではないだろうか。
それなのに今の自分はどうだろう。稽古がある時には休む理由を考え、稽古の無い日に自主稽古に励むこともしない。
そんな自分を誰よりも自分自身が知っている。
道場というのは所属するだけの場所ではない。稽古を積み重ね自分自身が成長する場所なのだ。
できない理由をとうとうと並べ立てるよりも、できる理由を絞り出そう。
そこには自分自身が誇れる自分が待っている。
2016.10.06
廣原先生が心体育道を創始された際に言われた「心と体を育てる道。いい名前じゃろう。心が伴わん武道はダメなんよ。心体育道は入門希望者もちゃんと面接して、ふさわしい者だけに教えるようにしたいんよね」という言葉が常日頃から私の中にある。
面接とまではいかないが、心体育道には喫煙者は入門できない決まりもある。利益を目的としたスポーツ武道とは違い、師が弟子を選ぶのである。
「心」が無ければ「体育道」となる。「心無き者」が学ぶ場である。「心」は「信」に通ず。「心無き者」は、他者から「信」を得ることができない。そこに「信」は無く、あるのは「虚」のみである。
また、「心ある者」は常に他者に「気」を配ることができる。「気」を配るものは他者の「気」にも敏感である。他者の「気」を素早く察知し、己の「気」を持って対処することは、すなわち武道における反応である。「心無き者」は常に己のことのみを考え、結果的に「虚」を生ずることになる。他者に「心配り」することなく生きていくことは人間社会では不可能である。そのため我勝手に生きようとするものは「虚」の世界にはまり込んでしまうのである。そして当然自己の中にあるはずの自分自身の過ちの原因を、自己ではなく他者に求めていく。「虚」に生きる者は、自分の「虚」を正当化するために「心無き言葉」で言いつくろい、「虚」に「虚」を重ねていく。
誠流武会も同様である。「誠」が無ければ「武会」である。「誠」を失った者は「不誠実者」となり、他者からの「信」を失う。「誠心誠意」生きることを忘れ、「誠」と「心」が抜け落ち、自分の「意」のままに生きようとし「虚」を重ねていく。
「心」と「誠」を失わないよう生きることも「心体育道 誠流武会」での修行である。武道である限り強さを求めることは当然である。しかし独り善がりな強さだけを求めてしまうといつしか友を失い孤立してしまう。自分ひとりしか存在しない世界では勝つことも負けることもできない。一人稽古をする場合も心に思い描いた他者が存在しているからこそ捌きを行える。他者を否定し自分しか存在しない世界で必死に捌きを行う姿は滑稽でもある。
武道の修行は一生である。今日の稽古の結果が翌日すぐに出てくるようなことは決して無い。無駄に思えるような日々の稽古の積み重ねのみが結果を生むのである。自分自身に原因を求めず、常に外に責任を転嫁し、まっすぐに道を進むことなく信念無くあちらこちら寄り道ばかりしていると、結果的に目的地にたどり着くことはできない。
目先の結果に囚われ「体育道 武会」の道に迷いこまないように。そこには「虚」を糧として生きる魍魎が手ぐすねを引いて落ちてくるのを待っている。
2016.07.21
自戒の念を込めて記す。
人は常に自分の人生の主役を生きている。自分以外の周りの人は自分の人生の舞台にとっての脇役であり、自分の人生が幕を閉じるとき、その存在は少なくとも自分の中からは消えてしまう。
はたから見たらつまらなそうに見えても、すべての人はその人生の中で例外なく主役なのだ。だから、最近のテレビドラマや映画のように、主役以外のキャストにスポットを当て、スピンアウトの特別編が作られ、そこにある違う視点からの人生に感銘を受けたりもする。
ところで最近、特に稽古の指導中に、ふと感じることがある。
大勢の気合の中で稽古をするのは、少数での稽古とまた違い別の気持ちよさがある。稽古をやっているんだなあという充実感がそこにはあふれている。しかし大きな気合の響くその空間の下で、「主役を演じているもの」、「脇役を演じているが機会が来れば主役に転ずるもの」、「今は脇役だがいつかスピンアウトの特別篇で脚光を浴びるもの」のほかに、「その他大勢」というものがこの世にはいるのではないかと思うことがたびたびあるのだ。自分以外の他人を際立たせるためだけにいるかのような「その他大勢」である。
「その他大勢」がいることによりもちろん道場は活気づいているのだが、そこに「存在」しているのは「その他大勢」以外の道場生で、「その他大勢」はただそこに「ある」だけのように感じてしまう。
簡単に言ってしまえば、その違いは真剣に立ち向かっているかどうかだけである。真剣に立ち向かうためには、その場所に来る以前の普段からの準備と、常日頃から持ち続ける稽古に対する心がけが必要である。それなくして皆と同じ舞台に立っても、それはやはりただそこに「ある」だけで、それ以上でもそれ以下でもない。それが「その他大勢」なのである。
それは武道だけではない。人生の様々な局面で自分を偽らずに真剣に立ち向かっているかどうかである。もちろん常に真剣である必要はない。時と場合によっては人は力を抜くことも必要である。要は自分を偽らないということが大切なのである。武術の稽古が自分の人生の息抜きの場であっても構わないと私個人は思っている。息抜きと手抜きでは全く違うのである。
現代において武道を学ぶ意味は、それぞれ違っていて当然である。それよりも武道を学ぶことによって自分の人生に何をフィードバックできるかが大切だとも思う。ただしこれだけは言えるのだが、武道を始めようとした頃の自分にとって、間違いなく武道とは自分の人生のなかの「光」のひとつだったはずである。その光が日々の生活に追われ、ごまかしを憶え、徐々に輝きを失っていくのである。
ただ漠然と生き、漠然と年を取り、漠然と死んでいくのも人生かもしれない。その選択権は自分にある。しかし、実際はそれを選択したというより、他の大切なもろもろを選択しなかった結果そうなってしまっただけなのではないだろうか。
テレビや映画のスピンアウトで主役を与えられるものも、その役の中でしっかりと自分の人生を生きているものたちばかりである。
なまけてばかりや、言い訳してばかりの人生は、もうすっかり鈍感になってしまった自分自身には見えなくなっているのかもしれないが、実は舞台を見ている客(自分の周りの他の人々)からははっきりと見透かされている。そしてそれを気づいていないのは自分だけなのである。
その他大勢になってしまってはつまらない。今からでも遅くはない。自分自身の人生をしっかり生きようではないか。
2015.09.24
ここ2〜3年、ローカーボンダイエットをあまりストイックにならずに続けている。
たまに厳しめに行うこともあるが、普段はまあ概ねゆるい感じである。
それでも結果は大したもので、92kgあった体重が現在78〜79kgで落ち着いているし、体脂肪率も12〜16%の間を行ったり来たりしている。もともとロサンゼルスで廣原先生の家に居候させていただいていた時は100kgを越えていたのでずいぶんの変わりようだ。
ところで私の減量について、よく「空手では体重があった方が有利なのではないか?」といった質問をしてくる方がいる。
答えは〇でもあるが✕でもある。
ルールの下で戦うフルコンタクト空手のようなスポーツ空手において体重が重いのは断然有利である。それゆえ私は意識して100kgの体重を維持していた。当時ロサンゼルスの道場には身長190cm前後、体重100kg超の道場生が多数在籍していた。その道場生たちの攻撃に対処するためでもあった。体で相手の攻撃を受けとめ、体全体の圧力で攻撃をはね返す。スポーツ空手ならではの戦い方である。
しかし、命のやり取りまで含めた武術の世界ではその考え方は全く通用しない。
廣原先生の名言にあるように「撃たれ強い者はいても、刺され強い者はいない」のである。
体で相手の攻撃を受け止めるということは、ナイフを持った相手から何度でも刺されてしまうということと同じ意味を持つ。一度でも刺されてしまえばもう終わりである。こちらの動きは止まってしまう。
相手の動きに的確に反応し、目や金的、首など相手の弱い部分に的確に反撃を加える。そのためには身軽な体が必要になる。100kg時代の私と、現在の私が戦ったら、100kgの私は簡単に倒されてしまうだろう。
誤解のないように言っておくが、ここでいう減量とは痩せるということではない。必要な筋力や力を保持したままで、無駄な脂肪をそぎ落とし、健康な体を作るということである。私自身、もう少し体重を落とした方がいいのではと今も感じている。
武道家として向上していくために必要なことは、道場での稽古だけではない。
強さを追い求めた上での減量というものある。
2015.05.04
何人かの道場生にはもう話したが、藤沢周の「武曲」が面白い。
高校剣道を軸に武道の本質を描いているのだが、これがなかなかのものである。
スポーツ格闘技と心体育道の違いが、現代剣道と主人公の目指す剣の道との違いのようで、読んでいて納得することが多い。
心体育道を修業するものにはぜひ読んで欲しい一冊である。
2014.09.04
誠流武会の昇級・昇段審査は年に一回である。
以前から私は「黒帯になるのが目的なら他の道場に行った方がいい」と言い続けている。
すべての道場生はもともと強くなりたいとういう目的で入門するのだが、途中から単に黒帯を習得することが目的となる場合がある。
ここで問題となるのが、現実問題として空手の世界はその流派や道場によって帯の実力がまちまちであるとういうことだ。
ただ単純に年数を重ねれば黒帯となることが可能な流派が実に多い。この場合の年数とは修行の年数ではなく、所属しているというだけの年数である。そして黒帯を取ったらその武道そのものをやめていく場合も多い。
私自身は、誠流武会における色帯とは強さを表すものではなく、心体育道の技術を習得した度合いを表すものだと思っている。もちろんそこに強さが徐々に備わってくるのではあるが、黒帯になってからが本当の修行なのである。
他流派で段位を取って誠流武会に入門してきた道場生が、最初の審査で水色帯や黄帯となるのはごく当たり前のことである。ルールのもとでの強さをいくら誇ってみたところで、それは全く方法論が違う。そのため武道経験者のほうがかえって、入門してしばらくの間、心体育道の動きに体がついて行かず苦しむ場合が多い。
しかしそこは黒帯である。稽古を続けているうちに突然意識が変わり、こちらが驚くほど動きが良くなってくる場合がほとんである。もちろん中には何を思ったか、最初の審査でまったく動けなかった自分のことは棚に上げて、本来黒帯を他流派で持っている自分が低い位置の色帯になったことに嫌気をさしてやめていく者がいるが、それは少数である。
誠流武会の稽古はどの道場も稽古は週一回、もしくは週二回である。道場の稽古の数としてはさほど多くない。むしろ少ないと言っていい。ただ心体育道とは暴力や病気から身を守るための術、いわば生きるための技術である。道場稽古だけで身につくはずもない。
道場とは稽古の方法、強くなるための方法を教える場所であって、それを実践するのは日々の鍛練でしかない。
とはいえ道場の稽古に出て来ずに自主稽古だけに励んでいては本末転倒である。正しい指導を受けずに収得できるような技術は心体育道には無い。きちんと稽古に出てきている弟子たちの動きを見ていても、間違った方向に進んでいるのを見ることが多々ある。
そのため今回の昇級審査より、出席日数が五割を越えている者のみ受けることができるとした。週一回、年にすると約52回。とすると年に26回の稽古への参加が必要であるが、月にすると約2.2回となる。
たったそれだけの道場稽古で強くなれると思っている者がいたら大いなる勘違いである。
2014.07.28
ジャン=クロード・ヴァン・ダムの十八番を。
50歳を越えてまだまだ身体能力がアップしていくのが感じられる。
2014.07.27
今日は肘打ちを使った捌き技。
肘を攻撃ではなく防御のために使うと、パンチや蹴りといった多様な攻撃に即座に対応でき、なおかつ有効な反撃を加えることが出来る。
2014.07.26
今年は3年ぶりに久高島での合宿。。
稽古終了後に海でクールダウン。
2014.04.24
先月ことだが、広島に行き久しぶりに廣原先生とゆっくり話をする時間をもつことができた。
普段お酒を飲まない私だが、その日は差し向かいということもあり久々に痛飲した。
思えば廣原先生とは本当によく飲みに行った。
30年前に初めてお会いした日も、夜歌舞伎町へと繰り出しにぎやかな飲み会となったのを昨日のことのように思い出す。それ以来東京、ロサンゼルス、広島と一緒にいるときは必ずそこにお酒があった。そして、ビールが大好きな廣原先生は店を何軒ハシゴしようとも、「じゃあ、とりあえずわしビール」と、ずっとビールを飲み続けていた。
「わし、最近は日本酒にこっとるんよ」
そういいながら徳利を片手に杯を重ねる先生にお付き合いして、私もしっかりと酔っぱらっていった。
「広島の道場の昔からおる黒帯連中はもう稽古に出ることを禁止にしたんよ。もう全員にそう伝えたけんね」
どれぐらいの時間が過ぎただろう。突然の言葉に驚かされた。
「わしのとこにおったら自分で考えんようになるじゃろ。わしが教える技をただ何にも考えんで稽古するだけになるけえ。それじゃあ進歩がないんよ。それにもうあの連中はどんなに勝手な動きをしても心体育道の動きから外れることはないけんね」
論語の不惑で有名な一説の中にある「七十而従心所欲不踰矩≪七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず(こえず)≫(70歳になって、自分の思うように行動をしても人の道をはずすことはなくなった)」が私の頭の中に浮かんだ。
常日頃から弟子たちに言っているが心体育道とは思考法である。心体育道という思考法が身についてしまえば、無駄な動きをすることなく相手の攻撃に対処できるようになる。
競技格闘技全盛の世の中、ともすればつい本質を見失い、ルールが少ない格闘技を実戦武道と取り違えてしまう。そしてその戦い方があたかも実戦的であるかのように勘違いする。ルールが一つでもあればどんなに激しい戦いであってもそれはスポーツなのである。護身の世界では、その動きが命取りとなる。
心体育道の思考法を身につけた広島の黒帯たちはもうどんなに好き勝手な動きをしても実戦という「矩(のり)」を「踰え(こえ)」ることはない。
「稽古に来るなっていう道場はなかなかないじゃろ」
廣原先生は大笑いしながらそういうと日本酒の盃をぐいっとあけた。
2014.04.23
4月20日の日曜日、関門海峡に横たわる武蔵と小次郎の決闘で有名な巌流島でおこなわれたリレーマラソンに、福岡支部と北九州支部の有志と参加した。
総勢6名で参加の予定が、民間SPの弟子に急きょボディガードの仕事が入り来られず、5名となった。
記録は全然だが、たまにはこういうイベントに参加するのもいいかもしれない。
2013.07.29
本日は合宿3日目、最終日である。
今日は様々な攻撃を捌いて、前屈立ちにつなげる稽古を行った。
崩し技としての前屈立ちなので、攻撃をするたびに倒されてしまい、それがまた体力を消耗させる。
顔面突き、中段逆突き、中段追い突き、ハイキック、ミドルキック、ローキック等、攻撃にバリエーションをつけて稽古を行う。気を抜くとハイキックを食らう羽目に。
最後に最近道場で行っていた捌き技を復習。
3日間の稽古が無事終了。さあこれからビーチだ。
2013.07.29
ランニング後はみんなで阿波連ビーチへ。白砂が水中を舞い、ちょっと透明度が悪いが、それでもやはり慶良間の海である。
2013.07.29
二日目は午前中の稽古。
昨日に引き続き前屈立ちの応用を稽古。
午後は恒例のランニングリレー。今回は渡嘉敷島の阿波連ビーチから灰谷健次郎邸までの折り返し。行きはいきなり急な登り坂からのスタートとなる。
負けたグループは夜の宴会で、勝ったグループの世話係となるためまずは結団式。
ランニングなのに急坂の連続にたまらずウォーキングに。
下に見えるのは阿波連ビーチ。
海の向こうは阿嘉島、座間味島。
勝ったのは吉竹グループ。個人記録でも東京道場の吉竹君がトップ。
終了後は渡嘉敷島の海をのんびりと楽しんだ。
2013.07.28
今回の合宿のテーマは前屈立ち。
一見伝統的で非実戦的に思われるこの立ち方が、一瞬の動きの過程で使用すると、全く力を使わずに相手を倒すことが出来る実戦的な技となる。
今回はまず「捌きの型一」をベースに、前蹴りに対する捌きを指導。
その応用として最終日までには様々な攻撃技に対応させていく予定である。
終了後、砂浜経由で宿へ。このあとは渡嘉敷島最大の祭り「とかしきまつり」に行き、みんなで総踊りに参加して楽しんだ。
2013.06.25
合宿場所が渡嘉敷島に決まった。
第10回記念合宿を種子島で行なって以来、弟子たちの希望もありずっと南の島で行なっている。
それまでは毎年、栃木県の日光だったので随分南まで来たものだ。
まあ、年に一度の各道場生の親睦も兼ねているのでこれはこれでいい。親睦とはいえ稽古はしっかりとやり、延泊できる弟子は延泊して沖縄の海を堪能してる。
稽古のできる場所をさがすのが結構大変なのだが、これまで種子島、座間味島、渡嘉敷島、久高島、阿嘉島(慶留間島)とやってきたので勝手がわかってきて、いざとなれば一度使ったところに行けばいいのである。今回がまさにそうだ。
延泊組は翌日の稽古のことを気にせず、思いっきり飲めるということもあり、深夜まで武道の話に花が咲くことになる。
今回で16回目。20回の記念合宿は実はグアムあたりをと目論んでいる。
2013.04.17
今年の合宿の日程が決定した。
もともとは7月20~22日でと考えていたのだが、当誠流武会も参院選の影響を受け一週間後の7月27~29日で正式に決まった。
各道場生は万難を排して参加するように。
2013.04.15
4月13日に滋賀県の百済寺に誠流武会の新支部が開設された。
当日は早朝の地震の為、京都より西のJRはストップ。伊丹空港からバスで京都へ行き、めざす能登川駅までも新快速は動かず、野洲行きの普通列車で乗り継ぎながらの行程だったが何とか無事午前中に到着。
指導も予定通り行うことができた。
いろいろ書こうと思ったが、このHPにリンクしている東京の道場生のブログ「心と体を護(まも)る術」に詳しすぎるほど書かれているので詳細はこちらでご覧いただきたい。
2013.01.19
廣原先生から一冊の本をいただいた。
タイトルは「ノーモーション筋トレ」
この本で紹介している筋トレの数々は、およそ一般の方々が考えている筋トレとは大きく違っている。
詳しくは先生の本を読んでいただいた方が早いが、ヨガのような筋トレである。
この効果を自ら証明するために、廣原先生はこの一年間、腕立てや懸垂など一般的に言われているような筋トレは一切おこなわず、この本で紹介してる筋トレ法のみをおこなってきたという。
本の帯には「アイソメトリック理論に基づく」と書かれているが、実際には廣原先生の直観力から生まれた筋トレ法で、アイソメトリック理論等は完成されたものに対する後付の説明でしかないと思う。
心体育道の武術、健康術の動きはすべて、廣原先生の直観力から生まれたものである。
そしてその技術は決して完成されることはなく常に進化し続ける。
まさに「無極」なのである。
2013.01.19
昨年9月よりずっとブログを更新していなかった。
何も書くことがなかったわけではない。
いろいろなことがありすぎて、書くと筆禍を招くような気がして控えていた。
まあひとつひとつは大したことではなく、稽古に対する弟子たちの取り組み方だったり、突然無礼な連絡が入ったりといういろんな小さなことが起こり続けただけなのだが。
これも現代という非常識な人たちが生きていく中に自分が存在しているということで理解するしかない。
2012.09.05
この3か月膝を使う動きを自粛していたところ、調子がすこぶる良い。
7月の合宿の際には、ひどい痛みだったのだが、8月の後半はみるみるうちに回復していっているように感じられた。
このままいけば、12月のハーフマラソンも無理ではない。そう感じていた。
しかしやはり、医者から手術を宣告された膝はそんな単純なものではなかったようで、この2、3日は以前に増して痛みがひどくなってきている。
こうなると面白いもので、ちょっとした動作や運動をするだけで、いかに膝がそれぞれの動きで大切な位置を占めているのかがわかる。
早い話、何をしても膝が痛むのである。
膝の痛みは、上り坂よりも下り坂の方がきつい。自分では下り坂とは気づかないような緩い坂道を、膝の痛みが「ここは下り坂ですよ」と教えてくれて初めて、そうであったのかと知る。
なんにも膝と関係ないような裏の捌きを行っていても、膝の痛みで全体の動きの関連性を再認識させられる。
合掌合蹠はもちろん、三拍子、肩立ちに至る足上げ、開脚、中足立ちほかの各体位法や各立ち方に至るまで、ほとんどの動きに膝が重要な位置を占めてることを感じさせられるのである。
とはいえ面白がってばかりもいられない。12月までもうそんなに残されていない。なんとかしなければ。
ということで、まずは少しでも負担をやわらげるために減量を開始することにした。
さて、うまくいくのやら。
2012.09.05
昇級審査の日程が決定した。
10月21日13時 北九州パレス
11月11日9時 練馬区中村南スポーツセンター
東京、大阪、福岡、北九州のどの道場に所属しているかにかかわらず、自分の都合に合わせて場所を選んで良い。
2012.08.24
今回の合宿は沖縄県座間味村の阿嘉島でおこなったのだが、稽古の場所が近くに取れず、慶留間島公民館を使用することになった。
おかげで何故か第10回夏季合宿以来恒例となっているランニングを、阿嘉島の宿から慶留間島の公民館まで行うことができた。
恐ろしく強すぎる日差し対策をおこない、いざスタート。
まずは阿嘉大橋を渡り慶留間島へ。
それにしてもあまりにも周りの景色が素晴らしく、海を背景に走っているだけで、その姿がちょっとした絵のようになってしまう。
熱中症にもかからず40代50代のおじさんたちも無事完走。
とは言え、これで終わったわけだはなく稽古はこれからなのだが。
2012.08.24
夏もようやく盛りを過ぎようとする気配が感じられるようになってきた。
そろそろ合宿の報告を。
まずはこちらから
いやあ、心癒されるいい合宿だった。
2012.07.19
最近ずっと膝の痛みがひどかったため、今月の初めに大きな病院でMRI検査をしてもらったところ、見事「半月板損傷のため手術」という診断が下された。
2か月ほど近くの整形外科に通いながら注射や湿布等でごまかしていたのだが、とうとう裏の捌きの指導で、屈伸や中足立ち、三拍子すらもできないありさまになってしまったのだ。
手術後は、1か月弱で松葉杖で歩けるようになり、2か月目に松葉杖が取れ、3か月目に軽い運動ができるようになるのが目安だという。入院も最低3週間は必要とのことなので、びっしりつまったスケジュールを考えると手術の実施は9月以降ということになる。
実は12月にマラソン大会に出場しようとしていたので、その旨を医師に告げると、やはり無理だとのお答え。手術日に関してはこちらの都合に任せるとおっしゃる。
とりあえず実家に置いてあった膝用の金属で補強された頑強なサポーターを取りに行って、現在はそれを装着して稽古指導を行っている。しかし、よくよく考えてみると、このサポーターを買ったのは20年近く前のことである。
あの当時も、医者にこそ行かなかったが、膝の痛みにはかなり悩まされた。もともとはフルコンタクト空手をやっていた頃の古傷なのだが、当時も歩くのに困難していたはずだ。
それなのに、いつの間にか痛みはなくなり、最近までランニングで20kmくらいなら普通に走れていた。
ということは、もしかしたらこの痛みも治る(ごまかせる)ことが可能なのかもしれない。
病院の先生も、痛みに関しては個人のものだから、我慢できるかどうかはその人次第だと言っていた。
MRI検査を受けた直後は歩くだけでもかなりの痛みが生じていたのに、実は昨日の稽古から、なんとなく調子が良い。今日も、昨日よりさらに調子が良い(様な気がする…)。
とりあえずマラソン大会に出ることを目標にじっくりじっくり治していこうと思う。目指す大会はハーフマラソンのみの大会なので何とかなるだろう。
12月まで、あまり時間はない。
2012.07.09
ニューズウィークに次のような興味深い記事が載っていた。
「外からの刺激だけだはなく、内面的なメッセージ(自分の考えや意思)によって脳に変化を起こすこともできる。ハーバード大学医学大学院のアルバロ・パスクアルレオネ教授が率いるチームは、このことを次のような実験で証明した。
被験者は1週間、片手だけで弾ける曲をピアノで練習する様子を思い描く。すると右手の指の動きをつかさどる脳の運動皮質の領域が拡大した。つまり考えるだけで、特定の機能をつかさどる運動皮質を大きくすることができたのだ。」(ニューズウィーク日本版2012年3月28日号)
なんということだろう。イメージするだけで、実際に武術で使う体の部分の機能をつかさどる脳の運動皮質が成長していくのである。想像すること、考えることはやはり大切なのである。もちろん考えてばかり、想像してばかりでは身体的な技術の成長は難しい。しかし時間のない時、ちょっとした時間ができた時などに、頭の中でイメージを繰り返しておいて、じっくり稽古をできる時にそれを膨らませていけば良い。
実際に道場で伸び悩んでいる弟子を見ていると、思い込みや、自分の経験値に頼って動いていることが実に多い。指導者の意図することを聞いていないし、しっかり見ているようで実はまったく見ていない。裏の捌きや基本稽古では号令を聞かずに経験から来る予測で動いてしまう。
なにも知らない者はイメージすることはできない。海を体験したことがない者には海の碧さ、塩辛さ、雄大さ、荘厳さ、怖さなどなどをイメージすることはできない。
より良いイメージをするためには、やはり見ることが大切である。それは道場でもよいし、道場に通える状況に無い者は、指導を受けた時のことを思い出し、繰り返し心に思い描けばいい。それ自体が稽古になる。いざとなればビデオやDVDの映像もある。
常に心を真っ白にして向かえば、必ず得るものはある。
そしてそこからまた、新しいイメージする力が生まれるのである。
2012.06.14
考えながら稽古をすることが大切であると二回にわたって書いてきたが、ここで重要なのが想像力である。
仮の敵の動きを想像しながら、自分の動きをそれに合わせて行うのも想像力ならば、廣原先生の動きを道場やビデオでじっくり見て、自分の網膜にしっかり焼き付けておき、自分が動きながら稽古をするときに、頭の中で自分の動きに廣原先生の動きを重ねながら行うのも想像力である。
スポーツの世界では、ずいぶん以前からイメージトレーニングの大切さは認知されている。ウエイトトレーニングの世界でも、自分がどの部分を鍛えているか意識しながら行う方が効果的と言われている。競技スポーツでは自分が勝った姿を思い描きながら練習することの有効性も説かれている。
これは武道の世界でも同じである。
ただ漠然と稽古するのではなく、今自分が何のために、何を目的として、どういう理由でその稽古を行っているかを考えるのである。
何も考えずにがむしゃらに稽古をするのもいいだろう。しかし、それではある程度の進歩の後に必ず壁に突き当たる。そこそこ強くはなれても、所詮そこまでである。
心体育道の稽古において言うならば、仮に何も考えずに稽古を行って強くなれたとしても、それは心体育道の技術のおかげではなく、もともと持っていた自分自身の能力のおかげかもしれないし、それまで経験してきた武術、格闘術のおかげかもしれない。
それは心体育道をやらなくてもそれぞれの個人がすでに持っていた強さでしかないし、その強さには限界がある。
「稽古中は常にそれぞれの技の意味を考える」ということの大切さを理解してほしい。もちろんこれは稽古中だけとは限らない。実際に体を動かす時間のない時でも、頭の中でシュミレーションしながら脳内稽古を行うだけでもいいのである。
それに関しては実に興味深い実験結果がある。それはまた次回に。
2012.05.24
第15回夏季合宿となる今年の合宿の日程が決定した。
7月21日~22日の3日間、場所は例年と同じく沖縄。
合宿の3日間は、たった3日間ではあるが、武道を学ぶ自分の姿を見つめなおすための大きな3日間でもある。
非日常の中で、脳の中をからっぽにして、大自然の下稽古することはそれ自体が「裏の捌き」でもある。
一年の中のたった3日間である。全員の参加を希望している。
2012.05.21
前回、道場稽古ができなくても武道家としてあり続けることは可能だと書いたが、ここではその中でも特に技術的な面での武の追求、一人稽古について考えてみよう。
一般的に格闘技の世界では、さまざまな人と一緒に稽古を行なうことで自分の技術を高め強くなっていくことができるということが一つの常識になっている。
言いかえれば「一人稽古では強くなれない。強くなるのに限界がある」ということである。
また自分より強い者と競い合うことにより、自分の能力がアップしていくとも言われている。
競技人口が多い方がレベルがアップするという考え方はそこから生まれたものである。
確かに競技格闘技の世界はそうなのかもしれないが、あながちそうとばかりも言えない。
実際、心体育道の創始者・廣原誠先生がロサンゼルスで指導をされていた頃、「まわりがあまり強くもない弟子たちばかりでは自分自身の稽古にならなくて、日本にいた頃のように強くなり続けることは無理なのではないか?むしろ弱くなっていくのではないか?」といった声を、日本で聞くことがたびたびあった。そのたびに私は「いえいえ、以前とは全く違った方向に技が進化し、より強くなっていますよ」と答えていたのだが、それは現在の廣原先生をご覧になれば一目瞭然だろう。
では具体的にはどのような一人稽古を行なえば良いのだろうか?
正拳突き千本、回し蹴り千本、腕立て伏せ千回、腹筋千回、サンドバック3時間、ウエイトトレーニングでパワーアップなどを繰り返せば良いのであろうか?
そのような稽古をただ繰り返しても、「正拳突きや回し蹴りが疲れることなく出し続けることができる力持ち」になれるだけで、武道の技術を高めていくことはできない。
一人稽古の方法といってもいろいろあるだろうが、最も大切なことの一つは「考えること」である。
ひとつの動きを行なうたびに、どう動けば最も効果的に相手にダメージを与えられるかを考えるのである。
むろんこの場合のダメージとは試合などを想定したものではない。せっかく有利な位置を取りながら、そこからハイキックなどを蹴りこんだのでは意味がない。
自分の体力を使わず、自分のバランスを崩さず、自分を常に有利な位置に置いたまま相手に最小限の動きで、最大限の効果を与えられる技を考えるのである。
そのためには常に想像力を働かせなければならない。相手の向き、足の位置、手の位置を想像しながら一人稽古を行なう。そして一つの技を繰り返し行うのである。この時、決して想像の中の相手を見失ってはいけない。見失うようなら稽古の速度を落とせば良い。そして徐々に速度を速め、どんな状況にも対処できるよう自分を訓練するのである。
考えながら技を繰り返し行い、最後には何も考えなくても技が出せるようになるまで続けるのである。
まずは心体育道の基本第一式~五式や、受けの基本、投げの基本、型などをベースに、相手を常に見失わないように想像しながら、繰り返し稽古することから始めてもいいかもしれない。