2012.01.23

ピノキオ

雨は自分自身の意思にかかわらず、その行き先がそれぞれ違ってくる。急流より大河へと移り、大海に至るものもあれば、いつのまにか澱みにはまり込み、行き場のないたまり水となり腐っていくものもある。

人は自らの意思を持ってその行き先が決まる。激しい流れとなって自分を鍛え上げ、賢者のごとき大河へと成長し、すべてを生み出す大海となる者もいれば、楽な流れに身を任せ、気が付くと澱みにはまっている者もいる。

水は何処に行きつこうともやがては蒸発という形で再び天に昇り、また雨となってやり直すことができる。人もむろんやり直す機会はあるのだが、そう何度も許されるものではない。人には寿命がある。

長距離走で例えてみれば、走るのはきつく、休むのは楽である。距離が長くなればなるほど、ただただ走り続けるのは困難である。もちろん休息も必要であるが、しかし休んでばかりいては見えない先のゴールには行きつかない。

ここでやっかいなのは、長距離走と違い、武術の修行にかかわらず人生のいろんな局面にいる、ゴールにたどり着くことを諦めた者の存在である。

そういうたぐいの人間は他者が努力をしていると必ずその足を引っ張る。他者の成長を妬むという気持ちすらなく、自分で気づかないまま努力している者をさぼらせよう、手を抜かせようとする。ピノキオでいうキツネとネコである。そして多くの者はピノキオと同様、楽な方楽な方へと導かれていく。

スポーツの世界でライバルが同時代にいる選手の方がより成長していくことの真逆である。大勢が休んでいるところで、一人もくもくと努力を続けることがいかに難しいことか。しかしやはり結果を出している者は多かれ少なかれ、その努力を続けたものなのである。そしてそうではない者に限って、その結果を恨み、才能や状況のせいにする。

誠流武会のある道場で、いつも大きな声で気合を入れながら稽古に参加している弟子がいる。最近とみに上達している彼が他の誠流武会の道場に出稽古に行った際、彼に対して「うちの道場ではそんな大きな声を出しませんよ」と言った馬鹿者がいたということを伝え聞いて、つらつらと考えてみた。