2012.05.09

稽古について考える その一

かつて武道家とは武の道を追い求める者であると同時に、武を自分の職業として生きている者のことを表現した言葉であった。

この意味において「武士」は階級を指し示す言葉であって、武士=武道家とはならない。特に江戸期以降の武士は、武よりも政治や経済の能力の方が、個々の武術的能力より必要とされた時代でもある。もちろん江戸期にも武の道を追い求める武士はいたし、剣術等の道場もあった。しかしそれは少数派であり、武士とは民を養う政をする職業集団を指し示す存在としての意味の方が強かった。

では現代社会における武道家とはいったいどのような存在なのであろうか。今を生きる私たちが、武を自分の職業として生きることは非常に難しい。ここでいう職業とは空手道場や格闘技専門のジムでの師範や指導員といった、試合の為のスポーツ格闘技を教える職業のことではない。生き死にのみを考えた武術を伝え教えることにより生活しているという意味においてである。
とはいっても、単なる人殺しのテクニックとして技術を教える軍隊での教官のような仕事も武道家とは呼べない。

では再び現代社会のおける武道家とはなんであるか考えてみよう。私見だが、武の道を追い求めようと決心し、武道が自分自身の一部と化して生きている者を、現代での武道家と言っていいのではないだろうか。

自分自身の一部とは、あくまでも「自分のすべての一部」であって、「自分の生活の一部」という意味ではない。ものの考え方、生活様式、健康法、食事法、人との接し方、社会との接し方、社会での自分の立ち位置等々…。例を挙げれば切りがないほど自分自身の一部という意味である。

とは言え、これは西洋的な生き方を捨て、かつての武士のように着物を着て日本人として和の道を追求するなどといったそんな表面的なことではない。どんな服を着ようと、どんなものを食べようと、どんな生活様式をしようと、自分の腹の奥底に武の心が座っていれば良いのである。

道場には様々な職業の者が通ってくる。そして弟子によっては道場での稽古を続けることが困難な場合も生じてくる。商社マンのように海外駐在を繰り返す者もいるし、年齢的に会社での位置が重要になってきて思うように道場に通う時間が取れないようになることもある。今のような社会状況では会社が倒産して経済的困難に陥ることもあれば、災害で生活自体が危機に直面する場合もある。

しかし道場での稽古だけが武道の稽古ではない。どこにいても、どんな状況にあろうとも、自分自身に武の道を歩む気持ちがあれば稽古はできるし、武道家として成長していけると思う。

「心体育道は武術であると同時に、心体育道という思考法である」と私は常々口にしている。心体育道という思考法を身につけ、それをさらに深めていくことはどんな状況にいようとも可能だと思う。

いろんな理由で道場稽古を続けられなくなるということが来るかもしれない。しかし、それは単に道場で稽古ができないという一つの状況でしかない。状況は常に変転するものである。自分自身が変転しなければ、武道家としてあり続けることは可能である。