第15回夏季合宿となる今年の合宿の日程が決定した。
7月21日~22日の3日間、場所は例年と同じく沖縄。
合宿の3日間は、たった3日間ではあるが、武道を学ぶ自分の姿を見つめなおすための大きな3日間でもある。
非日常の中で、脳の中をからっぽにして、大自然の下稽古することはそれ自体が「裏の捌き」でもある。
一年の中のたった3日間である。全員の参加を希望している。
第15回夏季合宿となる今年の合宿の日程が決定した。
7月21日~22日の3日間、場所は例年と同じく沖縄。
合宿の3日間は、たった3日間ではあるが、武道を学ぶ自分の姿を見つめなおすための大きな3日間でもある。
非日常の中で、脳の中をからっぽにして、大自然の下稽古することはそれ自体が「裏の捌き」でもある。
一年の中のたった3日間である。全員の参加を希望している。
前回、道場稽古ができなくても武道家としてあり続けることは可能だと書いたが、ここではその中でも特に技術的な面での武の追求、一人稽古について考えてみよう。
一般的に格闘技の世界では、さまざまな人と一緒に稽古を行なうことで自分の技術を高め強くなっていくことができるということが一つの常識になっている。
言いかえれば「一人稽古では強くなれない。強くなるのに限界がある」ということである。
また自分より強い者と競い合うことにより、自分の能力がアップしていくとも言われている。
競技人口が多い方がレベルがアップするという考え方はそこから生まれたものである。
確かに競技格闘技の世界はそうなのかもしれないが、あながちそうとばかりも言えない。
実際、心体育道の創始者・廣原誠先生がロサンゼルスで指導をされていた頃、「まわりがあまり強くもない弟子たちばかりでは自分自身の稽古にならなくて、日本にいた頃のように強くなり続けることは無理なのではないか?むしろ弱くなっていくのではないか?」といった声を、日本で聞くことがたびたびあった。そのたびに私は「いえいえ、以前とは全く違った方向に技が進化し、より強くなっていますよ」と答えていたのだが、それは現在の廣原先生をご覧になれば一目瞭然だろう。
では具体的にはどのような一人稽古を行なえば良いのだろうか?
正拳突き千本、回し蹴り千本、腕立て伏せ千回、腹筋千回、サンドバック3時間、ウエイトトレーニングでパワーアップなどを繰り返せば良いのであろうか?
そのような稽古をただ繰り返しても、「正拳突きや回し蹴りが疲れることなく出し続けることができる力持ち」になれるだけで、武道の技術を高めていくことはできない。
一人稽古の方法といってもいろいろあるだろうが、最も大切なことの一つは「考えること」である。
ひとつの動きを行なうたびに、どう動けば最も効果的に相手にダメージを与えられるかを考えるのである。
むろんこの場合のダメージとは試合などを想定したものではない。せっかく有利な位置を取りながら、そこからハイキックなどを蹴りこんだのでは意味がない。
自分の体力を使わず、自分のバランスを崩さず、自分を常に有利な位置に置いたまま相手に最小限の動きで、最大限の効果を与えられる技を考えるのである。
そのためには常に想像力を働かせなければならない。相手の向き、足の位置、手の位置を想像しながら一人稽古を行なう。そして一つの技を繰り返し行うのである。この時、決して想像の中の相手を見失ってはいけない。見失うようなら稽古の速度を落とせば良い。そして徐々に速度を速め、どんな状況にも対処できるよう自分を訓練するのである。
考えながら技を繰り返し行い、最後には何も考えなくても技が出せるようになるまで続けるのである。
まずは心体育道の基本第一式~五式や、受けの基本、投げの基本、型などをベースに、相手を常に見失わないように想像しながら、繰り返し稽古することから始めてもいいかもしれない。
かつて武道家とは武の道を追い求める者であると同時に、武を自分の職業として生きている者のことを表現した言葉であった。
この意味において「武士」は階級を指し示す言葉であって、武士=武道家とはならない。特に江戸期以降の武士は、武よりも政治や経済の能力の方が、個々の武術的能力より必要とされた時代でもある。もちろん江戸期にも武の道を追い求める武士はいたし、剣術等の道場もあった。しかしそれは少数派であり、武士とは民を養う政をする職業集団を指し示す存在としての意味の方が強かった。
では現代社会における武道家とはいったいどのような存在なのであろうか。今を生きる私たちが、武を自分の職業として生きることは非常に難しい。ここでいう職業とは空手道場や格闘技専門のジムでの師範や指導員といった、試合の為のスポーツ格闘技を教える職業のことではない。生き死にのみを考えた武術を伝え教えることにより生活しているという意味においてである。
とはいっても、単なる人殺しのテクニックとして技術を教える軍隊での教官のような仕事も武道家とは呼べない。
では再び現代社会のおける武道家とはなんであるか考えてみよう。私見だが、武の道を追い求めようと決心し、武道が自分自身の一部と化して生きている者を、現代での武道家と言っていいのではないだろうか。
自分自身の一部とは、あくまでも「自分のすべての一部」であって、「自分の生活の一部」という意味ではない。ものの考え方、生活様式、健康法、食事法、人との接し方、社会との接し方、社会での自分の立ち位置等々…。例を挙げれば切りがないほど自分自身の一部という意味である。
とは言え、これは西洋的な生き方を捨て、かつての武士のように着物を着て日本人として和の道を追求するなどといったそんな表面的なことではない。どんな服を着ようと、どんなものを食べようと、どんな生活様式をしようと、自分の腹の奥底に武の心が座っていれば良いのである。
道場には様々な職業の者が通ってくる。そして弟子によっては道場での稽古を続けることが困難な場合も生じてくる。商社マンのように海外駐在を繰り返す者もいるし、年齢的に会社での位置が重要になってきて思うように道場に通う時間が取れないようになることもある。今のような社会状況では会社が倒産して経済的困難に陥ることもあれば、災害で生活自体が危機に直面する場合もある。
しかし道場での稽古だけが武道の稽古ではない。どこにいても、どんな状況にあろうとも、自分自身に武の道を歩む気持ちがあれば稽古はできるし、武道家として成長していけると思う。
「心体育道は武術であると同時に、心体育道という思考法である」と私は常々口にしている。心体育道という思考法を身につけ、それをさらに深めていくことはどんな状況にいようとも可能だと思う。
いろんな理由で道場稽古を続けられなくなるということが来るかもしれない。しかし、それは単に道場で稽古ができないという一つの状況でしかない。状況は常に変転するものである。自分自身が変転しなければ、武道家としてあり続けることは可能である。